【社会】「武将」伊達政宗について調べてみよう
おしゃれでかっこいい男性という意味で使われる「伊達男」ですが、 その語源となった東北の武将、伊達政宗について調べました。
どんな人だったんだろう。ワクワクするわ!
仙台の観光地に行くと、運が良ければ伊達武将隊に会えるらしいですよ。
自主学習ノートの書き方(えんぴつで書いた例)
自主学習ノートの書き方(例)
「武将」伊達政宗について
伊達政宗は、18歳で伊達家の当主となり、豊臣秀吉や徳川家康などとも関係性を築き、
仙台藩(現在の宮城県)の初代藩主となった人物です。
東北の繁栄に力を尽すとともに、支倉常長をメキシコやヨーロッパに派遣するなど広い視野をもった大名でした。
生まれ
出羽(現在の山形県)に生まれる。
戦国大名である伊達輝宗の子
1567年に生まれ、1636年(70歳)で亡くなる
(安土桃山時代から江戸時代前期)
子どものころの政宗
幼い時に天然痘という伝染病にかかり、右目の視力を失ってしまいます。そのため、母親にはあまり可愛がられなかったという話が残っています。 また、片目を失ったことにより、「独眼竜」と呼ばれるようになりました。
伊達政宗の像(仙台城跡)
主な出来事
政宗は、18歳で、伊達家の当主となります。その後、周辺の大名たちとの戦いに勝利し、24歳のときには、奥州(東北地方)の3分の1を支配するようになります。
1590年以降は、当時最も力が強かった豊臣秀吉の勢力に加わります。政宗は、秀吉が当時対立をしていた北条氏を攻める際に遅れて戦場に到着しました。このことに秀吉は激怒し、裁きを受けることになります。政宗は死刑になりそうになりますが、巧みな弁明で命をつなぎます。
秀吉の死後は徳川家康につき、江戸時代には仙台藩(宮城県)の初代藩主となります。。東北の繁栄に尽力するとともに、ヨーロッパとの貿易を考え、支倉常長を派遣しました。
支倉常長が乗ったサンファンバウティスタ号