(小4,5,6年)自主学習や自主勉強のネタとノートの書き方|小学生まなび研究会

【社会】「武将」上杉謙信うえすぎけんしんについて調べてみよう

松左衛門先生
松左衛門まつざえもん
先生

今回は、戦国時代に最強と言われた武田信玄たけだしんげん互角ごかくに戦った人物を紹介するよ。 戦国時代は、強くてかしこい武将のみが生き残るきびしい時代ですね。

小学生のゆーちゃん
小学生の
ゆーちゃん

強い人なんだね。毎日、ジムに通ってたのかな?

松左衛門先生
松左衛門まつざえもん
先生

昔はジムなんて、ないでしょ!

自主学習ノートの書き方(えんぴつで書いたれい)

「武将」上杉謙信(うえすぎけんしん)についての自主学習ノート

自主学習ノートの書き方(れい)

「武将」上杉謙信(うえすぎけんしん)についての自主学習ノート

「武将」上杉謙信うえすぎけんしんについて

上杉謙信は、長い間、内乱ないらん状態であった越後国えちごのくに(新潟県)を22歳でまとめ、越後統一えちごとういつを成しげました。

その後、甲斐かい国の武田信玄と度重たびかさなる戦いをり広げ、織田信長とも戦って大勝したことがある有力な武将
です。

強さから「越後えちごりゅう」といわれることもあります。


上杉謙信の像

生まれ

越後えちご国(新潟県)に生まれる。
上杉家につかえる越後守護代えちごのしゅごだい 長尾為景ながお ためかげの子

1530年に生まれ、1578年で亡くなる
(戦国時代から安土桃山時代)


上杉家 家紋


幼少期の謙信

謙信は寅年とらどし生まれであったため、幼名ようみょう虎千代とらちよと名づけられました。

また、実の父は、謙信の兄である晴景はるかげを大切にしていたため、謙信とは関係が悪く、城下にある林泉寺りんせんじという寺に入れられていました。 寺では、住職じゅうしょくから教えを受け、勉学や武術にはげんだといわれています。

主な出来事できごと

当時の越後国えちごのくに内乱ないらんはげしく、不安定な時期でした。 また、 父である長尾為景ながお ためかげ家督かとくいだのは、謙信の兄・晴景はるかげでした。 しかし 晴景は、病弱であり、越後をまとめる技量ぎりょうがなかったため、混乱こんらんはさらに続いていました。

状況じょうきょうが変わったのは、近くの豪族ごうぞくが、上杉謙信の栃尾城とちおじょうに攻めてきたときです。 謙信は、少数の兵を二つに分けて、てきの背後から不意ふいをついておそう作戦をとりました。 これが見事に成功し、周囲の予想に反して謙信は謀反むほん鎮圧ちんあつすることができました。

その後も混乱こんらんは続きますが、謙信は室町幕府むろまちばくふ13代将軍「足利義輝あしかがよしてる」に越後国主えちごこくしゅとしての地位を認められ、22歳のとき、越後統一えちごとういつを成しげます。

川中島かわなかじまの戦い

上杉謙信は、武田信玄たけだしんげんによって領土りょうどを追われた小笠原長時おがさわらながときを助けたことにより、信玄との関係が悪化します。 同時にその頃、武田信玄は領土りょうど拡大かくだいしつつあったため、上杉謙信と戦うことになります。

これが「川中島の戦い」と呼ばれ、12年の間に5回も戦うことになります。 戦況せんきょうは上杉謙信が有利に進むことが多かったですが、最終的に決着はつきませんでした。

川中島古戦場


織田信長との戦い

1577年、加賀国かがのくに(北陸)の手取川てどりがわにて、上杉謙信と織田信長おだのぶながの戦いが起きます。

謙信は織田信長の領土りょうどであった七尾城ななおじょうを攻めます。七尾城から援軍えんぐん要請ようせいを受けていた織田信長は、重臣の柴田勝家しばたかついえ羽柴秀吉はしばひでよしなど総勢そうぜい3万の兵で出陣しゅつじんします。

しかし道中、柴田勝家と羽柴秀吉とでもめ事があり、羽柴秀吉は、途中で引きあげてしまいます。これにより 乱れが生じた織田軍は、結果的に上杉謙信に敗れることになります。

織田信長に勝利した次の年・・・

謙信は城内のかわや(トイレ)でたおれ、病死します。原因は脳出血のうしゅっけつと言われています。49歳のときでした。