(小4,5,6年)自主学習や自主勉強のネタとノートの書き方|小学生まなび研究会

覚えておきたい人物「福沢諭吉ふくざわゆきち」について

松左衛門先生
松左衛門まつざえもん
先生

今日は慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく設立せつりつした人を勉強するよ

小学生のゆーちゃん
小学生の
ゆーちゃん

慶応義塾大学!知ってるよ。東京にあるんでしょ。将来私もこの大学に入っちゃおうかな。

松左衛門先生
松左衛門まつざえもん
先生

「入っちゃおうかな」ではなく。一生懸命いっしょうけんめいに勉強しないと無理だよ。

小学生のゆーちゃん
小学生の
ゆーちゃん

え!そうなの!?じゃ、まじめに自主ベンするか。

ノートの書き方(例)

覚えておきたい人物「福沢諭吉」

生い立ち

福沢諭吉ふくざわゆきちは1835年に大阪で生まれました。父は中津藩なかつはん(現在の大分県)の下級武士かきゅうぶしで、諭吉がまだ小さいうちにくなりました。この時代の日本は生まれた家の身分みぶんによって差別さべつきびしい時代でした。

そのような時代でしたが、諭吉は学業がくぎょうに力を入れ、兄のすすめで長崎に行き蘭学らんがくを学ぶ事になります。

蘭学らんがくとは、江戸時代にオランダ語を通して、西洋せいようの文化や学術がくじゅつ技術ぎじゅつなどを研究けんきゅうした学問がくもんのこと

福澤諭吉旧居

福澤諭吉 旧居

大阪、そして江戸へ

その後、大阪にうつり住み、緒方洪庵おがたこうあん適塾てきじゅくで学ぶようになります。だんだんと諭吉の蘭学に関する知識ちしきは深まり、人に教えられるまでになっていきます。

1858年諭吉は江戸で蘭学らんがくを教えるじゅくを開くことになります。その塾には西洋せいよう技術ぎじゅつを学ぶため多くの人がおとれました。

福沢諭吉

英語との出会い

1859年、諭吉は横浜に出かけました。その頃、日本は鎖国さこくをやめて開国かいこくしていたため、横浜には多くの外国人がいました。

諭吉は自分がこれまで勉強してきたオランダ語を使って外国人と交流しようとしましたが、彼らが使っていた言葉は英語で、諭吉が今まで学んできたオランダ語はほとんど通用しませんでした。このことがきっかけで諭吉は英語の勉強をはじめることになります。

アメリカやヨーロッパを訪問

諭吉はアメリカやヨーロッパなどの国々を訪問ほうもんする機会きかいをえます。実際じっさいに外国を訪問し現地の文化や技術ぎじゅつにふれてさまざまな刺激しげきを受けます。

特におどろいたことは、男女や身分みぶんに関係なく、本人の能力のうりょくによって地位ちいが決まることでした。当時の日本は生まれた家や職業しょくぎょうで身分が決まる時代であったため、このことは諭吉の考えに大きな影響えいきょうをあたえることになります。

欧米おうべいの文化や考えを日本に広める

諭吉はアメリカやヨーロッパをおとずれて学んだことを『西洋事情せいようじじょう』という本にまとめました。また、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という有名な書き出しではじまる『学問のすすめ』も発表します。

1868年には「慶應義塾けいおうぎじゅく」というじゅくを開きます。教育に力を入れ、学問の大切さを広くうったえて当時の日本に大きな影響えいきょうあたえました。

福沢諭吉


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