覚えておきたい人物「伊藤博文」について
ゆーちゃん、日本で最初の内閣総理大臣って誰か知ってる?
知ってるよ。聖徳太子でしょ。
いやいや、ぜんぜん違うし。しかも時代も古すぎるでしょ。
ノートの書き方(例)
生い立ち
伊藤博文は1841年に長州藩(今の山口県)で生まれました。農家の子として生まれた博文でしたが、父が伊藤家という武士の家に入ることになったため、博文は農民から武士となりました。
武士となった博文は16歳の頃から吉田松陰の松下村塾で西洋の文化や技術について学ぶようになります。
しかし、吉田松陰が投獄され、江戸で処刑されたことを期に、江戸幕府を倒し天皇中心の国に戻すべく「尊王攘夷運動」に参加します。
吉田松陰
イギリスへ
1863年、博文は見聞を広めるため、留学生としてイギリスを訪れます。当時のイギリスは、文化、産業、軍事力、どれをとっても日本より進んでいました。これを見た博文は日本の近代化の必要性を感じます。
日本に帰った博文は、倒幕運動に加わります。やがて幕府は倒れ、明治という新しい時代がやってきます。新しい政府に参加した博文は、中心的な人物になります。
ちょうどその頃、全国的に国会の開設や憲法の制定をめざした自由民権運動が盛んになります。これらを取り締まった新政府は10年後に国会を開くことを約束しました。
大日本帝国憲法の発布
国会を開くためには、憲法が必要になると考えた博文はドイツやオーストリアの憲法を調査するためにヨーロッパを訪れます。そしてこれらを参考にして内閣制度を作り、最初の総理大臣になります。
1889年には大日本帝国憲法を発布し、その後国会が開かれます。
日清戦争
1894年、博文は朝鮮を侵略するため、中国(清)と戦争を始めます。これが日清戦争です。日本はこの戦争に勝利し朝鮮を支配することになります。 しかし、1909年、博文は日本の朝鮮侵略を反対した青年によって殺されてしまいます。